朽木谷をゆく(旧朽木村の概要)  

 <現況>

・成 立 明治22年(1889)4月1日、市制町村制施行により成立

・面 積 165,ku   ・人 口 2,603

・村の花=ヤマユリ  ・村の木=スギ

・村名の由来 中世の荘名による。

 

<立地>

〜国境の山村〜

 県の西部に位置し、朽木谷の名で知られた広い村域のほとんどが山地である。周囲を取り囲んだ標高500〜900mの山々に2つも三国岳の名が見えるのは、近江と若狭・丹波・山城の国界によったものであり、さらに小川地先に近江・山城2国の境界石が残存するなど、いずれもその辺境性を示している。その中を丹波高原の百井峠に源をもつ安曇川(俗称.大川)が北流し、針畑川・北川・麻生川の支流を合わせ、主邑市場付近で向きを東に変え、隣接安曇川町に注いでいる。大川筋はいわゆる花折断層に沿うもので、北陸〜京都を結ぶ間道として早くから利用されたが、ここに開かれたのが朽木街道であった。気候は、山間地特有の時雨のため天候が変わりやすい。また日照時間が短くて気温も低く、冬期はしばしば豪雪に見舞われて孤立化することがある。最奥の針畑地区を含む朽木西小学校区は、僻地指定でも、県内最上位の*5級地になっている。

 

<沿革> 

 

「原始・古代」

〜森林資源と開発〜

 朽木谷にはまだ、原始の人々の暮らしを証明する考古資料(遺跡・遺物)は1つも見つかっていない。

 この地域が歴史上で確かめられるのは、せいぜい1,000年ほど前からである。「和名抄」の高島郡郷名に桑原郷が載っているが、所在について諸説がある。「日本地理志料」などのように、針畑地区に桑原があるので、それを古い針畑荘(桑原・古屋・中牧・小入谷・荘屋・生杉・能家・横谷・轆轤の9か村)と古賀荘(上古賀・下古賀・南古賀の3か村)にゆかりのあるものと推定すれば、その範囲はかなり広いものであったことになる。

 奈良期、東大寺の建築用材がこの地域の山作所から、筏などで搬出されたらしい。天平宝字6年(762)の「高島山作所漕材注文」(大日古)は、文中の小川津について問題を残しがらそのことを推測させる。平安期になると、長保3年(1001)中納言・大宰権師平惟仲が、白川寺喜多院に布施した所領10か所の中に、「高島郡朽木庄」と記したものがある(高野山文書)。この頃国の諸所に荘園化が進み、先の桑原郷もいまひとつ大きな朽木荘に吸収されたもののようである。

 治暦4年(1068)の「大政官符」に朽木谷奥地の針畑地区と、朽木谷に北接する三谷地区の山々が子田上杣(こだかみのそま)と呼ばれたことが見え、それがやがて藤原頼通の家領となる。都にも知られた「朽木の杣」で、歌枕にもなった。この谷筋が当初からその森林資源をもとに開拓されたらしいことが、その自然環境と照らし合わせて充分うなずける。

 

「中世」

〜朽木氏登場〜

 朽木谷が荘の性格をはっきりさせて登場するのは、鎌倉期に入ってからである。承久の乱後,佐々木信綱はその功によって、幕府からこの朽木荘の地頭職に新補された。所領は朽木荘以外にもあったが、子孫が次々と分かれていって、それが後に高島七頭といわれた武士団を形成した。朽木荘を譲られたのはそれらの中で、信綱二男高信の孫にあたる義綱が最初である。弘安10年(1287)のことで、ここに土地の名をとって朽木氏を称した。しかし、元弘3年(1333)には地頭職安堵の綸旨を朝廷から得たかと思うと、建武3年(1336)には幕府からこの地域を兵糧取り立ての料所として預けられたように認めてもらったりして、所領確保に苦心している。

 

〜針畑荘と年貢〜

 宮前坊に残る抜塚の伝説は、朽木氏入部に際して行われたこの谷の旧支配層坊村少将などの抵抗をしのばせるが、当時この地域にどのような村落生活の展開があったかは詳らかでない。「針畑文書」によると、荘内の針畑9か村が山門(延暦寺)西塔領に属するようになって、それを区別するために針畑荘と呼ぶようになったという。やや時代が下降するが、天文23年(1554)の「針畑田地之事」の文面には、それが上白屋・今井・田中・山本・小入・上中寄・下中寄・下白屋・くほう・滝権寺・下司・公文・能家上・能家下の14名に分かれ、領主がその名田ごとに年貢を収納したらしい。年貢は、米・大豆その他山方年貢として四二寸榑(しにすくれ=4寸と2寸角の材木)があったらしい。その四二寸榑をめぐり、永仁5年(1297)に地頭代と雑掌間に争いが起こり、ついに地頭代が解任される事件があったので、その結果針畑荘では,さらに新たな年貢の負担を申し渡されたりしたこともあった。

 また、この荘の南の葛川荘や、西南の山城久多荘との間で、争いが絶えなかった(葛川明王院文書)。そのほとんどは山論である。しかし、互いに荘園の区域をこえて共通するものをもち、行き来もずいぶんあったと思われる。鎌倉末期に、朽木荘に葛川の上分田がつくられるとか、朽木荘の田地が葛川明王院に寄進されるとか、あるいは南北朝の頃になると、地頭の朽木氏が明王院へ奉った戦功祈願の願文があったりする。

 

〜山の生活〜

 朽木・葛川の谷筋には、古くから山にヤマノクチと呼ぶ山の神、川にシコブチと呼ぶ筏神の土俗の信仰が伝えられてきた。新来の地頭朽木氏も、それらを無視することはできず、宮前坊の旧朽木大宮権現(邇々桙神社)・野尻の旧山神社(山神神社)を朽木谷の総産土神と崇めたり、葛川の地主神社の祭礼に何かにつけて関与した。

 この頃、京都〜小浜間の交通はようやく開けた。寛元元年(1243)曹洞宗の開祖道元が、北陸下向の途次立ち寄り、上柏指月谷が宇治興聖寺の地形に似たところから、領主の信綱に勧めてここに禅林を創立させたのが、現在の岩瀬興聖寺の起源であるとされている。これが近江最初の禅林で、代々朽木氏の菩提所となった。以後、朽木村の天台系寺院のほとんどが禅宗に改宗することになった。今日朽木領内53か寺のうち、禅宗が37か寺を数える。また、雲洞谷日吉神社の「大般若経」奥書には、嘉慶2年(元中5〈1388〉)京都の信光寺にあったものを、応永3年(1396)この地区がもらい受け、さらに康正3年(1457)になって神社に奉納したことを記している。

 

〜将軍避難所〜

 長禄2年(1458)になると、足利義政が朽木貞高に朽木荘を安堵した。それはその翌々年に室町幕府の御料所として、毎年100貫文を貢納させる下心があったからともとれる。以来、朽木氏は応仁・文明の戦乱の打ち続く中で、ひたすら幕府に密着して終始した感があった。まもなく、足利将軍はたびたびこの谷筋に難を避けることになる。享禄元年(1528)12代将軍義晴は管領細川氏の失政によって孤立すると、はじめ六角氏の援助を求めて近江に来たが、その分流の縁故から朽木稙網(たねつな)を頼って朽木谷に入り、同4年(1531)までここで政務を見た。朽木氏は居館を朽木陣屋内に設けて仕えた。さらに13代将軍義藤(義輝)も、三好党に追われて坂本・穴太・堅田を転々としたが、三好党と六角氏が戦うことになると、天文12年(1543)と同22年〜永禄元年(1558)の5年間を、2度にわたって難を避けるために滞在している。永禄11年(1568)織田信長が近江に侵入して六角氏は滅びるが、その分流でありながら朽木氏はこの時も独自の行動をとって、その所領を失うことがなかった。元亀元年(1570)信長が若狭からこの朽木谷へ入って来た際も巧みに対応することによって、その支配に従った。このようにして,天正18年(1590)の豊臣秀吉の天下になると、高島都の蔵入地900石の代官となり、いわゆる太閤検地の奉行などを勤めたりしたのである。

 

〜鯖の道〜

 谷筋の街道には関所が置かれ、高島関といわれたようであるが、今日その場所は明らかでない。長享3年(1489)幕府は朽木氏を関の代官に任じたが、なぜか朽木氏は断った。しかし,朽木氏も京都へ出る場合は、関を通過しなければならなかった.延徳2年(1490)・明応6年(1497)・永正3年(1506)などに、朽木氏の被官人500・馬50匹が荷物とともに京都へ出る場合、その通過に差し障りがないようにと、幕府が各関所へ命じている。なお、この街道の往来について、「朽木文書」の「庄下用帳」は京都へ上京する商人が通るとか、車54台に積んで貝鮑が京へ行くとかいったことまで記している。この街道が俗に「鯖の道」と呼ばれたのは、若狭からの海産物が、盛んに運ばれた結果であろう。

 

〜惣村と支配〜

 中世末期になると、朽木荘には荒川・麻生・市・村井・椋川・地子原・雲洞谷・栃生といった多くの惣村が成立した.これらの運営は主として朽木氏の被官であった殿原衆が当たったが、その下には中間と呼ばれる有力な農民と一般の農民たちがいた。16世紀の初め頃の荘内各惣の10〜40軒の家から棟別銭を取り立てた。時には各惣が強い対立を生じて争ったりもした。永正元年(1504)に小川惣・平良惣が、椋川惣・荒川惣とはいっしょに心を合わせないとの祈誓文などが残っている。朽木氏は次第にその惣の内部支配を進めたが、一方「奥畑炭かま銭」「商人銭」「馬宿銭」といったものを課しながら、林業・商業・交通など荘の経済力をしっかりとその手中に納めていった。しかし、針畑住民などが、能家の奥の中原に密かに隠し田を開いたりもしていた。

 

<近世>

〜谷朽木〜

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に、朽木氏は途中から徳川方に味方をし、その結果さらにこの谷筋支配を保ち得た。慶長6年(1601)朽木元綱が領有した範囲は、もとの朽木荘29か村をはじめとして、針畑荘・三谷荘・本荘・広瀬荘・音羽荘・山城久多荘を含めると9,595石であった。翌7年、村ごとの検地が行われた。この朽木氏を俗に「谷朽木」とも呼んだのは、居所を朽木谷の野尻に定めたからであった。家の格式は表向き1万右に満たなかったため、交代寄合に位置づけられ、その所領も朽木知行所と呼ばれた。しかし、実質は大名に準じて江戸にも参勤交代することになっていた。そしてその家筋は、いずれも旗本として明治維新に至る。

 

〜村数と年貢〜

 江戸期を通じて朽木知行所内の村高には、なにほどの変化もなかった。あっても100石とか、100石以下が大部分を占めたのは、もともと田畑が乏しい地理的条件によったからであろう。この時代の村数を「朽木文書」によってみると、旧朽木荘(市場・岩神・穴ケ瀬・宮前・坊・野尻・上柏・下柏・古川・大野・村井・栃生・椋川・麻生・横谷・轆轤・地子原・雲洞谷・平良・小川・荒川)21か村、旧針畑荘(能家・桑原・古屋・中牧・小林・生杉・庄屋・小入谷)8か村、旧三谷荘(角川・保坂・途中谷・山中・大杉・轆轤・天増川・梨ノ木・椋川・自在坊・六ツ石・水谷・追分)13か村で、合計42か村になる。

 これらの村々は平地の村とは違い山林関係の生業の割合が強く、この傾向は特に麻生・地子原・雲洞谷から西の村々で大きいものがあった。年貢は村高の40〜50%に及んだが、自然条件に災いされることもあったから、川成などで差し引かれることが多かった。その他山方年貢として四二寸米・川狩米・茶年貢・油草代米・薪代米・みそ米代などがあった。

 

〜林業と木地屋〜

 中世から引き続き、何といってもこの地域を特徴づけてきたのは林業であった。しかし、安曇川を下る筏は琵琶湖への出口の南船木港(安曇川町)に材木座が置かれ、木材を特権的に取り扱い、運上・座役銀などの租税・手数料に当たるものを取り立てた。炭焼にも市場・岩神の問屋支配があり、これを、仲介しないと炭の売り立ては堅く禁じられていた。

 なお、轆轤周辺は麻生木地山ともいった。かなり古くから轆轤師(のちの木地屋)が集結して、朽木氏の庇護を受けながら椀・盆など木器の木地を生産した。中世〜近世を通じての経歴は、著名な木地屋根元地と伝承される近江小椋谷の「蛭谷氏子狩帳」「大岩助左衛門日記」などに記録をとどめている。岩神には数軒の塗師屋もあったが、そこで彼らの木地に漆工したのである。朽木盆はその製品の中で、黒地に朱で十六菊を描いたものが、特に*「菊盆」*と呼ばれて著聞した。

 

<近現代>

〜行政区画の変遷〜

 明治元年大津県が定まるとともに、従来の朽木氏領は同県下に入り、さらに同4年(1871)の廃藩置県後は、長浜県、次いで犬上県、さらに滋賀県へとめまぐるしくその所属を移り替えた。

 明治5年区制が施行されると、宮前・坊・上柏・下柏・古川・大野・村井・栃生・小川・平良・雲洞谷・地子原・麻生・横谷・轆轤・荒川16か村は高島郡第13区に、市場・野尻・岩神・穴ケ瀬・能家・小入谷・生杉・庄屋・中牧・小林・古屋・桑原の12か村は第14区に編入された。しかし、やがて地租改正が進むにつれて隣合わせの村々で合併が行われ、岩神・穴ケ瀬が岩瀬、麻生・横谷・轆轤が麻生、中牧・小林が中牧、上柏・下柏が柏、宮前・坊が宮前坊、生杉・庄屋が生杉に名を改めた。

 明治12年に区制は廃止となり、各村は郡の直属となったが、同18年連合戸長役場所轄の区域と役場の位置が定められて、荒川・野尻・市場・宮前坊・岩瀬・地子原・雲洞谷・麻生の8か村は市場連合戸長役場に、柏・古川・大野・村井・栃生の5か村は大野連合戸長役場に、小川・平良・桑原・古屋・中牧・生杉・小入谷・能家の8か村は古屋連合戸長役場に所属した。

 明治22年になると市制町村制が施かれることになり、従来の行政区画を拡大して、上記の3連合戸長役場に属した21か村を合併し、ここに旧朽木氏領の大部分を占める新しい朽木村が成立した。

 

〜林業から近代産楽へ〜

 第2次大戦は、この朽木谷にも大きな荒廃の爪跡を残して終わった。しかし、戦後も農地改革の影響はほとんどみられず、山林の所有関係は依然として旧態のままで存続した。この村では、「物産誌」などに記された、明治初期からの生産形態は、大正〜昭和20年の終戦を通じて長く変化は見られなかった。

 昭和28年には町村合併促進法が公布されたが、朽木村では、その立地の特異性もあって、明治の行政村当初の規模をそのまま踏襲し、「村」の称呼とともに残された。

 養蚕・製炭・筏流し・石灰採取・麻布・木地挽きの生産など、かつての山家的風景はまったくその姿をとどめないが、それに引きかえて近年は、朽木牛を主とする畜産農業、地域森林計画に基づいた人工林林業、豊かな安曇川水系をめぐる観光漁業や、繊維・木函・電気部品・機械部品を生産する誘致工業の促進があり、村の暮らしそのものが新しい時代の動きとともに、めまぐるしくそのパターンを変えつつある。しかも、村自体が今日の過疎といわれる現実に直面して、それにどう対処すべきかを問い続けているのが、いつわらざるこの村の現状である。

 

〜学校の変遷〜

 当地域には,小学校は朽木東・朽木西の2校と*能家・平良の2分校があるが、その母体は明治初年、江戸期、朽木陣屋のあった市場に、領主朽木之綱によって設立された朽木藩学社である。そのほか、野尻の秀隣寺住職らによって江戸期からの寺子屋式教青が続けられていた。これに代わり,同7〜9年に村内に11の学校が設けられ、地理的,経済的制約から文化に恵まれなかった村の発展に貢献した。のち同41年東西の2校と10か所の分教場となったが、山間で地域も広大なため統合がむずかしく、昭和30年までは本・分校あわせて12校があったが、現在は*4(3=能家休校)校となっている。

 中学校は、昭和22年東西の両小学校に併設、同23年合併して朽木中学校となり、現在に至っている。

〜史跡・文化財・文化施設〜

 国指定名勝に旧秀隣寺庭園、町無形民俗資料に針畑六斎念仏がある。ほかに、文化財は国指定重要文化財2、町指定文化財2がある。その他民営ではあるが、社会教育関係の朝日キャンプ村(麻生)が開設されている。

 

                   (角川地名辞典25「滋賀県」より)

 

*注 文章中、小学校についての記述*印の所は現在僻地級も3級に変更になっている。また、能家分校も現在は廃校、平良分校は休校となっている。

 

*「菊盆(朽木盆)」*

   これについては、「盃の 下ゆく菊や 朽木盆」<芭蕉)>の句もある。 

     

*朽木の現在は観光開発が進み「想い出の森」・「生き物ふれあいの里」・朽木温泉「てんくう」・「スキー場」・日曜朝市の開催・森林浴フェスティバル等 のイベント等々、近畿のオアシスとしての発展は目を見張るものがあり、京 都等近郊都市の安らぎの場ともなってきている。銘・名産品の開発も盛んで ある。こんにゃく・栃餅等々、また、興聖寺・宮前坊多宝塔など史跡も多い。

  

朽木をゆく 

 

 坊村の集落をあとにして道は北へ向かう。しばらく行くと対岸にひっそりとたたずむ町居の集落がみえる。葛川の集落は、はとんどが街道に沿うように位置しているが、町居だけが対岸である。

 この町居から次の集落の梅ノ木にかけての比良山系には、山頂近くからの山崩れのあとをみることができる。これは江戸時代の寛文2年(1662)、近畿を襲った大地震のツメあとである。

 その27年後の元禄2年に、この若狭街道を通った著名な儒学者の貝原益軒はそのもようを「此辺に、昔は町井柚の木(梅ノ木のなかの小字)と云う両村あり。寛文2年5月朔日、大地震の時、東の山崩れて村里を埋め、両村の人皆死すと云。東の山は比良の高峰の両側也。また谷の西にも高山あり、その間に谷川流る。町井柚の木は川ばたにありし村なりと云。」とのべている。この地震によって山間の葛川の集落は、莫大な被害をこうむったことがうかがえよう。 道は梅ノ木の集落へ入るが、その手前に安曇川にかかる前川橋がある。この橋を渡り安曇川の支流針畑川に沿うて西へ進むと、行政区域からいえば、一度京都市左京区久多町へ入り、再び朽木村へもどる。

 そして道は針畑川に沿った集落の小川・平良・桑原・古屋・中牧を経て雲洞谷へ通じている。この辺りは、朽木谷の西側にそびえる山々の裏側にあたるところだ。地勢は信州のような高原地帯で、夏は涼しい。だが廃屋、戸が締まったままの民家、クワの入っていない田畑が目立つ。まさに進む過疎化の現象と対面しているようだ。

 街道は貫井の集落をこえる。左に流れる安曇川の川幅もせまくなり、それにつれて道幅も少なくやや坂道になる。そして綱川の集落へはいる。細川は大津市の最西北部の集落。道は大きくカーブしていていよいよ朽木村へと続く。

 葛川谷をすぎると比良山地と丹波山地にはさまれた朽木谷にはいる。朽木谷は安曇川本流をはじめ麻生川・北川・針畑川の四つの渓谷があり、その川筋にそれぞれの集落が散在している。

 これらの深い谷に囲まれた山林は、古くから「朽木の杣」とよばれてきた。これは古く大きな木が繁茂した地であったのであろう。

 朽木が本格的に歴史上に登場してくるのは、近江佐々木氏の一族佐々木信綱が地頭職として入った鎌倉時代からである。その後領主は朽木氏が代々継承した。

 ところで、若狭街道は葛川谷と同じく安曇川本流に沿って朽木村市揚へ入りここで安曇川と分かれて山道を今津町保坂へと続いている。この長い谷間道を北国へ旅した貝原益軒は、その紀行に「信濃なる木曽路の外にいまだかかる長き谷は見ず」と記しているほどであった。しかし、この道は北国と京都を結ぶ最短路としてその価値は大きかった。大津市の細川町と朽木村との接点をなすところは、右渕である。続いて街道に野街道・腰越の集落があるが、この付近は安曇川の扇状地にあたり、比較的平坦地である。

 腰越の集落をすぎると、道は左ヘカーブをとり、道幅・川幅ともせまく、左下に安曇川を見落とすことになる。このように川の流れに沿って道の高低、カーブの多いのも谷間道の特徴である。

 また、街道と一体をなす安曇川の美しい流れや、随所にみられる大小の奇岩・怪石は、往来する人々の目をたのしませたことであろう。

 村井の集落にはいると、対岸も少し開け西村井の集落をみることができる。そして道は、大野の集落を通り、川幅の広くなった安曇川にかかる桑野橋をわたる。この橋のできるまでは、かつて川渡しが行われていたといわれる。

 道は古川の集落を過ぎると朽木谷では、平野部にでる。左側の老杉の並木をもつ広田神社の前を通り、やがて街道は岩瀬の集落にはいる。

 岩瀬の集落は明治7年(1874)に岩神と穴ガ瀬の二村が合併して新しい地名が生まれたのである。土地の歴史をひもとく本来の地名が消えてしまった一例といえよう。

 それはともかく、道は下岩瀬の集落の手前で国道と旧道に分かれるが、旧道を進めば興聖寺道と交差する。左側の山道にあたるやや坂道をのぼると、樹林に囲まれた禅宗の興聖寺がある。

 この寺院は、もとは対岸にあたる柏の集落にあった。寛元元年(1243)に道元(曹洞宗を開いた僧)が、北国行のときこの地を通り、宇治の興聖寺とよくにた土地を見つけ、当時の領主佐々木信綱に建立を進め、その寺号を与えたといわれている。

 興聖寺は、江戸時代に大火にあい、柏から朽木氏ゆかりの秀隣寺のあった現在地へ移された。この境内の南東の一隅に著名な旧秀隣寺庭園がある。

 享禄元年(1528)室町幕府12代将軍足利義晴が、京都の乱をさけ、朽木の領主朽木稙綱を頼ってこの地を訪れた。その後、義晴は朽木谷で3年有余の間滞留したのである。

 そのために朽木氏は館を設け、義晴を遇したときに新たな庭園が作られた。作庭にあたったのは、風流人で知られた細川高国であった。

 庭園は、数多の石で組まれた池泉式観賞もので、左手に石組みで″鼓の滝″を配し、曲水で形づくる池泉には亀島・鶴島をつくり、みごとな石橋が架けられている。後方の築山には石組みを配するなど近江ではめずらしい室町時代の様式を随所にみせ、国の史跡名勝の指定をうけている。また、庭園ごしにみえる安曇川、対岸の集落・蛇谷ケ峰の景観もすばらしい。

 下岩瀬の集落をあとに北へ進めば、朽木村の中心地の市場にはいる。この市場は、長い間朽木氏の陣屋があったところで、自然にまちの形態ができた。また、地名のとおり地形的にも各谷からの物資の集散地で、「市」が立っていたからであろう。やがて朽木村の商業の中心ともなった。

 ここでは江戸時代に多くの問屋が置かれ、各谷からの材木、薪炭などが取り扱われ京都へ運ばれた。この問屋の下に山子とよばれる多くの炭焼人が属していたのであった。

 明治13年の「滋賀県物産誌」によれば、市場村だけで108軒、人口500人を数えるほどであった。ところで、市場の家並みは街道沿いに両側に並び、道の右側には用水路があり、柳の木も植えられ宿場町的な色彩をいまもみることができる。

 道は市場で安曇川本流と分かれて、その支流沿いに北へはいる。安曇川本流沿いの道を東へ進めば荒川を経て安曇川町中野から南市へと通じている。

 しかし、この道が開かれる明治初年までは、朽木谷の人々は若狭街道か入部谷越えをしていた。すなわち、この峠越えは市場から対岸の宮前坊を経て、蛇谷ケ峰の北側にある入部谷峠(482m)を越える。そして高島町の鴨川の上流にある武曽・野田の集落を通り西近江路(国道161号)ヘ通じていた。

 峠には、沢トンネル(長さ137m)があり、市揚から高島町勝野までおよそ13qの道のりであった。この道は朽木谷の薪炭などが牛馬や人の背によって運ばれたり、太湖汽船が就航するようになってからもよく利用されたのである。

 市場から安曇川の支流北川に沿って進むと、北川にかかる三ツ石橋をわたる。やがて道は分岐点にさしかかる。

 右は若狭街道、左をとれば麻生・地子原・雲洞谷へ通じている。ここで左の道をとってみよう。道の左側を流れる北川に、朽木谷の奇岩の一つ蛙石をみることができる。川は麻生川と北川に分かれ、やがて道も麻生口で分岐する。左側は・地子原・雲洞谷を通り葛川梅ノ木ヘ。右側をとれば朝日の森ロッジやキャンプ場を経て麻生の集落から木地山へと通じている。さらに進めば木地山峠を越え、福井県小浜市上根来町へとつながっている。この木地山越えも古道であった。

 三ツ石橋をあとにした若狭街道は、いよいよ山に囲まれた谷間を進む。完全舗装されたこの道は、いままでの葛川谷・朽木谷と比較して、両側の山地の標高も約400mと低く、空間もあり明るい感じがする。

 やがて街道は、朽木村と今津町の境をなす桧峠を越える。そして途中谷の集落をすぎて今津町の保坂へはいるのである。

 この保坂は、若狭街道と九里半越え(街道)との分岐点として著名であった。すなわち、近江路(北国街道)の要地今津から小浜を結ぶ道(距離的に九里半もあるところから名付けられた)と若狭街道が接合。この交通上の要所から室町時代には朽木氏管轄の「保坂関」が設置された。

             −−小林博・木村至宏編 近江の街道より−−

 

 

 

 朽木村〜産業の変遷〜

 

 古くからの主要産業である農業は、耕地が少なく日照時間が短いためそれほど盛んではなかった。水田は雲洞谷や市場・宮前坊・地子原・麻生などに比較的あったが階段地で面積も狭かった。そのうえ、大半は冷水のかんがいする湿田で病害虫の発生も多く、生産力はきわめて低い。米作地は明治40年代に増大するが、大正中期以降著しく減少した。裏作は冬期の長期にわたる積雪のため、ほとんど行われていない。第2時世界大戦中、食糧自給のため一時麦作が行われたが現在では減少した。

 このような農業経営を改善する方策の一案として和牛生産団地の造成による畜産農業の振興が進められた。村の畜産こと、和牛の飼育の変遷はいわゆる「朽木牛」の名で知られるように、明治以来の伝統があり、以前はたいていどこの農家でも牛を飼っていた。こうして、協業による和牛生産経営、林間放牧の多頭飼育経営を意図する動きが出てきた。こうして、和牛生産と農業という経営の多角化を進めてゆくことで、新たな農業のあり方を方向づけ、産業振興の一助となることを目指している。

 これに対して、林業は、明治20年代から木材の需要が増加したことから最も主要な産業となった。また、薪炭などの商品化も進み、県下でも有数の生産高をあげた。

 明治30年代後半には、鉄道の枕木として栗の角材を切り出し、盛んに京阪地方に販出するようになったため、安曇川を利用した筏流しも隆盛した。これに便乗して、薪炭が安井川・船木へと搬出された。

 昭和に入り、戦時経済が次第に拡大されるにつれ、木材・木炭の需要が一層増した。それが戦争になると,戦災都市復興のため拍車をかけ伐採林業時代といわれた。しかし、そうしたことを憂える声が各地におこり、昭和35年造林臨時措置法が公布され、育成林業が始まる。それ以後、杉の造林が盛んになる。

 当時、朽木村における林業の主体は、木炭の生産であった。それが戦後の燃料革命によって、木炭の生産は激減し、村の林業は窮地に陥った。昭和27年に発足した森林組合の事業は、木材生産・林道工事に主体を置き、34年には木材の市売事業を始め、40年からは第1次林業構造改善事業を受け入れ、樹苗生産事業を行うに至った。ところが、わが国の経済発展の蔭には、過密過疎の現象が甚だしくなり、建売住宅等が急増して木材の需要は一段と増大したが、その反面外材の輸入も大幅に増加して、国内における木材総需要の50%を占めたため、日本材は大きく圧迫を受けて、価格の低迷を招いた。こうしたことが、木材市の運営を困難とし、また、造林事業を労務の不足で不振の状態に追いつめた。

 しかし、村にとって林業の振興なしには、村民のゆとりある生活を考えることは苦しい。このような状況から、第2次林業構造改善事業では入会林野の整備、林地の集団化、林道の整備を進め、森林組合の指導によって林業労務の安定的確保のための労務班の組織化が図られるなど、林業復興の機運を盛り上げている。

 

  〜炭焼き裏話〜

 

 大字村井の言い伝えによると、もともと朽木谷の炭焼きは、村井の住民が特権を与えられていた。その由来は、朽木氏の先祖が入部谷を越えて、初めてこの谷へ入って来たとき、坊村少将の抵抗にあって止むなく畑村から村井への道を迂回したが、その時助力を惜しまなかったのが村井の住民であったという。特権は、その恩義に報いるために朽木氏が認めたものと伝えられる。であるから、朽木谷では長い間、村井住民の許可がなければ一切炭を焼くことはできなかった。たとえ焼くことができてもそれを自由に売ることはできなかった。しかし、江戸時代には実際そうしたこともなくなり、炭焼きは村々で行われるようになった。

 昭和元年頃、木材を除く林産物の売上げ9.3万円のうち、木炭は8万円。昭和14年には14.4万円のうち13.4万円を占めた。昭和31年には生産高県下第2位。翌年は史上最高の生産高をあげた。

 しかし、この後、燃料革命が進み、木炭の需要は急激に減ってしまう。

 朝露を踏み、蜘蛛の巣をかき分けて、隣近所が同じ谷へわれ勝ちに行って炭を焼くという風であった。帰る前に谷向かいへ声をかけるとあちらこちらから答えがあって、一つの谷間に随分大勢の人が入っていることがわかり、なかなか賑やかな風景が見られたという。今はもうこうしたことは昔語りになってしまった。

 

       〜木炭の様々な利用法〜

             〜燃料としての他に〜

1.土壌改良機能

木炭は多孔質であるため透水性・保水性に優れているとともに、土壌中の有用微生物の繁殖を助け、芝等植物の生育に役立つ。また木炭の表面は炭素、酸素、水素で構成される種々の官能基で覆われており、この官能基が親水性、吸着性を支配し、農業や肥料を吸着保持し、排水中に流出するのを防ぐ。このように木炭は農業等の施肥量を軽減させる機能を有している。

2.鮮度保持機能

植物は、自らエチレンガスを発生し熟成老化を促進する。木炭はこうしたガスの吸着性に優れ、速やかにエチレンガスを除去することにより食品等の腐敗を遅らせ鮮度を保つ機能を有している。

3.湿度調節機能

床下換気が不十分な住宅では、床下地盤部からの水蒸気が長時間滞留するため結露が発生し、木材腐朽と高湿度からの不快感の最大の原因となっている。木炭は、種々の大きさのたくさんの気孔をもっており、その孔を利用して空気中の水蒸気を吸脱着し、快適な湿度を保つ調湿機能を有している。

4.浄水機能

木炭は、弱アルカリ性でその表面積は1g当たり300uもあり、また、アルカリ性に強い拮抗菌等有用微生物が着生しやすく、その広い表面積に生物膜をつくる。これらの微生物は分解・吸着能力を備えており、河川等の汚濁浄化に有効である。

5.消臭機能

木炭の多孔質は、アンモニアガス等の臭気を吸収することにも優れている。古くは蔵の中や床下に炭を俵のまま置き、カビ臭などをとるために利用されていた。また、現在は安全性の高い消臭剤として、冷蔵庫の消臭にも役立っている。

6.電磁波遮蔽機能

電子レンジ、パソコン等の電子機器から発生する「不要電磁波」は通信障害、電子機器の誤動作等問題になっているが、高導電化した木炭で筒体をつくり、遮蔽すれば不要電磁波を遮蔽することができる。この特性を活用し、電磁波遮蔽を求める建築材料等への利用が見込まれている。

*木炭を燃料以外に何に利用できるだろうか。考えてみよう。

 

 

   〜新しい産業〜

 

朽木村は、長い間村の産業として農林業中心に歩んできたが、最近では、信和精工などの会社が設立され、地元の工業として益々発展している。

 

 信和精工‥‥‥ベアリングと呼ばれる4o〜5oの材料を仕入れ、それを切断して、砥石で幅と外型を整える研磨行程を行っている。さらに、ベアリング鋼は旋盤で面取りがなされ、一つのベアリングとして誕生一歩手前まで加工され、大津へ送られる。加工されたベアリングは、自動車、機械、電気器具等に使用される。日本精工大津工場の系列会社として、ベアリング鋼は、姫路から仕入れられている。

 

信和精工のほか地域の工場には、朽木村内から、たくさんの人々が勤め、各家庭の収入源になっている。

 朽木村が、現在、開発に力を入れているのは、観光事業である。他府県や他市町村から朽木村を訪れる観光客は年々増えている。また、平成7年7月には朽木温泉『てんくう』がオープンし、予想以上の客足で賑わっている。


平成17年1月、旧高島郡内の6町村が合併し、高島市が誕生、朽木村は「高島市朽木」となった。
今後、少子高齢化を迎え、高島市の一員として発展充実をめざす方向でスタートを切った。 

 

 

  古くから伝わる地域の行事               

1 神明講(市場本町=朽木で一番旧い講)

2.だんごまき(上市場・下市場)

3.五月祭(野尻=山神神社)

4.節分(野尻・宮前坊)

5.願払い(野尻・宮前坊)

6.南風よけ(野尻・宮前坊)

7.お日まち(野尻・宮前)

8.金比羅神社初参り(野尻・宮前=金比羅神社1月10日)

9.金比羅神社お祭り(野尻・宮前=金比羅神社4月10日)

10.えびす神社初参り(野尻・宮前=えびす神社1月20日)

11. えびす神社お祭り(野尻・宮前=えびす神社10月20日)

12. しいら切り(麻生=若宮神社)

13. 日吉神社の宮行事(地子原=日吉神社)

14. 伊勢講(雲洞谷・岩瀬・柏)

15. 行者講(雲洞谷・岩瀬)

16. 愛宕講(雲洞谷・岩瀬・柏)

17. 吉祥講(雲洞谷)

18. 山の講(雲洞谷・宮前坊)

19. 善太郎祭り(雲洞谷)

20. 春祭のおのうまい(能家=能家山神社)

21. 稲虫送り(生杉)

22. 火振り祭り(平良)

23. しいら祭り(栃生)

24. 元旦の神事(大野=市杵島神社)

25. 神主の交代(大野)

26. 月一回の勘定(大野)

27. 戸を祝いましょう(岩瀬=岩瀬地区民間行事)

28. 地蔵講(岩瀬=毎月24日)

29. 稲荷講(岩瀬)

30. 念仏講(岩瀬)

31. 迩々杵神社の祭礼(宮前坊=迩々杵神社)

32. 厄よけ(宮前坊)